メキシコと中米を巡る旅 (田中一夫)

メキシコと中米を巡る旅

ティカル遺跡

ティカル遺跡

サンクリストバル先住民市場

サンクリストバル先住民市場

グアテマラ、セマナ・サンタ

グアテマラ、セマナ・サンタ

サンクリストバルメイン通り

サンクリストバルメイン通り

タコス屋台

タコス屋台

チェチェン。イツァー、エルカルティージョ

チェチェン。イツァー、エルカルティージョ

チワワ鉄道ティビサレロ

チワワ鉄道ティビサレロ

チワワ鉄道フェルテ川

チワワ鉄道フェルテ川

テオティワカン月のピラミッド

テオティワカン月のピラミッド

プエブラ

プエブラ

メキシコ国境を越えグアテマラへ

メキシコ国境を越えグアテマラへ

ラテンアメリカビル、メキシコシティ

ラテンアメリカビル、メキシコシティ

革命記念、メキシコシティ

革命記念、メキシコシティ

メキシコと中米を巡る旅
                     田中一夫著

 今年もまた海外を巡る3ヶ月間の旅に出掛けていました。行き先はメキシコと中米の国々、グアテマラ、エルサルバドル、
ホンジュラス等です。
 目的は、一義的には、勿論、嘗てのアメリカ大陸に展開したミステリアスな古代文明や、中世のスペイン統治時代のコロニアルな
都市を、訪ねる事に有りましたが、私にとっては、他にも、これらの国々のうち、特にグアテマラに対しては、特別な思い入れが
有り、ここは是非とも訪れて見たいと思っていたのです。
 実は2006年にも、私はこの国を訪問していました。その時グアテマラシティの、コンコルディアという名前の、小さな公園で
交わした、地元の人々との、交流の日々が、強く私の心に焼き付いていました。今でも尚、そこで入手したCDのボレロを聴くたびに、
何時も、その時の懐かしい思い出が、込み上げて来るのです。
 そして、私の思いは巡ります。現在その公園は如何なっているのでしょうか? あれから6年も経っているので、今は勿論、
当時の状況とは可なり変わってしまっているのでしょう。その時、身を寄せたホテルカプリのウエイター、マルコは未だカプリの
レストランに 居るのでしょうか?コンコルディア公園で交流したアイス売りのロメオ、宗教伝道師のミレーヌ、花売り娘のアリス
それにトラック運転手のフェルナンド、彼らも未だそこに居るのだろうか? 彼らに対しては、今でもまだ、その時の思いが、
私には強く残ってはいるものの、だからと言って、再び彼らと交流を持ちたいと言う訳でも無いのです。ただ何となく、もう一度、
訪ねて見たいと言う気がしているだけなのです。そんな思いを抱きつつ、2012年3月2日、私はセントレアから成田を経て、
ロスアンジェルスに向かいました。

 日本を出てからは、ロスアンジェルスを経由して、二日間掛け、やっとメキシコシティに到着しました。
そこでは、先ずラテンアメリカ最大の都市遺跡、テオティワカンとメキシコ古代文明の集大成である、国立人類学博物館を
訪問しました。その後、ユカタン半島まで長距離バスで移動し、チチェン・イツァー遺跡、パレンケ遺跡等を巡りました。
 パレンケからは 陸路で、ツーリストバスとボートを乗り継いで、メキシコの国境を越え、グアテマラへ入国したのです。
グアテマラの国境からは、再びツーリストバスで、マヤ最大の神殿都市遺跡、ティカル遺跡を観光すべく、その拠点となる
フローレスへと進みました。そしてジャングルの中に埋もれているティカル遺跡を観光した後、首都のグアテマラシティへと歩を
進めました。
 フローレスからは、前回訪問した時と同じように、今回も夜行バスを利用して、夕刻、 そこを出発し、早朝、思い出の地、
グアテマラシティへ到着しました。私は しばらくの間、バスターミナルで夜が明けるのを待ってから、逸る心を抑え、その近くに
有ると思われる、ホテルカプリへと向かいました。前回の記憶を辿りながら行くと、迷う事無く、直ぐにホテルカプリに辿り着く
事が出来ました。でも、そこにはもうマルコは居ませんでした。コンコルディア公園へも、3日間通いましたが、昔の仲間達には、
もう誰にも会う事は出来なかったのです。6年の月日と云うのは長いのです。全てが消え去っていました。

 でも、この旅で、私には、また新たな出会いが生まれました。
私は通常旅に出掛ける時は、そこで交流した人々に、記念になるものを何か残して来たいと思い、予め一寸したものを用意して
行きますが、今回は浮世絵が描かれたコースターを持って行きました。そのコースターを最初に上げたのは、チワワ太平洋鉄道で、
山岳地帯を巡った時、そこで出会った人達でした。当初この旅は、私の予定には無かったのですが、現地の情報によると、
チワワ太平洋鉄道は、メキシコに現存する唯一の一般旅客鉄道であり、この鉄道の旅は、最近、にわかに人気が、高まっていると
言う事を知りました。 そんな話を聞くと、私の中では、折角ここまで来たのだから、是非とも それに乗って見たいと言う思いが
強まり,急遽決めた旅なのです。
 路線は 海沿いの町、ロスモチスから峠を越えて、アメリカとの国境に近い高原地帯にある町、チワワまで延びています。
その全長は653kmで、そこには39の橋と大小86のトンネルが有ります。起伏の激しい峡谷地帯を走るので、車窓に広がる
風景もまた迫力があり、乗客は、雄大な自然を楽しむ事が出来るのです。
私はメキシコシティから約20時間掛けて、チワワ迄バスを使ってアクセスしました。午後遅く出発して、翌日の昼頃チワワへ
到着しました。
 そして到着後、直ぐ街中に出て、宿探しを行いました。バックパックを担いで、一時間半ほど探しまわったのですが、
なかなか手頃な宿が見つかりません。結局、最終的には、さびれた感じの地区にある130ペソ(約900円)の安宿に落ち着く事に
なりました。
 翌朝列車は6時出発なのですが、もし乗り遅れると1日を無駄にしてしまいます。駅までの時間と切符購入等の時間を見込んで、
遅くとも5時少し前には宿を出発しなければなりません。レセプションの女性には、翌朝4時半頃までに、タクシーが宿に来るよう
手配を頼みました。何でも気軽に返事をする女性を見て、何となく不安を感じたので、私は確度を上げる為に、
何度もピックアップ時間の念押しをしました。その甲斐あってか、翌朝4時頃起きて、外を見ると、門前には既にタクシーが
駐車していました。早速準備を整えると、未だ車の中で熟睡中の運転手を起こして、駅に向かいました。
 駅に着いてみると、駅舎の門は未だ閉ざされていて人の気配は全く感じられませんでした。扉を開けようとガタガタしていたら、
ガードマンが出て来て、5時にならないと駅は開かないよ、と言われました。時計を見ると5時までには未だ15分位有ります。
仕方が無いので、荷物を扉の前に置いて時間が来るのを待つ事にしました。駅舎の前は一軒のホテルが有って、そこには明かりが
点いていますが、その横の土産物店とか、そのまた横のかレストラン等には明かりは全く有りません。
 鉄格子で囲まれた駅構内を見ると、右隅の一角に蒸気機関車が展示されていて、そこは美しくライトアップされていました。
その蒸気機関車とか土産物屋の展示物を、薄明りの中で見ながら時間を潰していたら、5時を回ったので、再度駅舎の扉を開けに
行きました。すると、又ガードマンが出て来て、未だ1時間も有るよ、との返事が返ってきました。おかしいなぁと思い、
よくよく考えてみると、その時初めてメキシコには同じ国内でも時差が有る事を思い出しました。ここはメキシコシティに比べて
1時間、時間が遅れているのです。これから未だ1時間も、この何も無い暗闇の中で過ごすのかと思うと、憂鬱な気持ちに
なってしまいました。
 でもそんな私を可哀想に思ったのか、ガードマンが外に出て来て私の相手になってくれました。私の拙いスペイン語と英語、
ガードマンのスペイン語と拙い英語、それがコミュニケーションの手段でした。意思疎通には随分もどかしい所が有りましたが、
話題は東日本大震災の事、日本食や日本文化等、多岐に亘りました。彼は非常に親日的で、日本に深い関心を持っていました。
そんな彼に、心を込めて、私は浮世絵のコースターから、美人画を一枚選んで上げました。それを見て、彼は新鮮で画風がとても
良い、気に入ったと、心から喜んで呉れました。
 やがて時間が来て、ガードマンは駅舎の扉を開けました。促されて中へ入ると、そこは木目調の内装で、木の香りが漂う、
感じの良い駅舎になっていました。その後も、彼は私に対して、旅の情報に関するパンフレットの収集とか、切符を買う時とか、
何くれと無く面倒を見てくれ、細やかな気遣いを見せて呉れたのです。
 駅舎の開門と同時に徐々に人も集って来て、駅は次第に活気づいて来ました。やがて待ちに待った列車もホームに入ってきました
私はガードマンに別れを告げて 待望の列車に乗り込む事にしました。車両は3両編成で、先頭がジーゼル機関車、2両目が食堂車
3両目が80座席ぐらいある客車になっていました。
 指定された席を見つけると、先ずバックパックを傍らの荷物棚へ納めました。一息就いてから、私は穏やかな感じで旅のモードに
浸ろうと思い、深々とその座席に身を委ねました。なかなか座り心地は良いし、座席の間隔もゆったりとしています。
 これなら快適な旅が期待出来そうです。愈々これから一日がかりの長い旅が始まるんだなぁと思うと、体の中から沸々と湧き
出して来る、わくわく感にとらわれ、其の儘まったりと座席に座り続けていました。やがて列車は静かに走り出しました。
 私は窓外に展開して行くアメリカの田舎町のようなチワワの町の風景を虚ろな感じで眺めていました。それはメキシコの多くの
町に見られるコロニアルな町の雰囲気とは、また明らかに違ったものなのです。
 走り始めてから暫くして、車掌が検札にやって来ました。切符を渡すと、それを見て「カスオは終点のロスモチス迄行くのですね
何処から来たのですか?お仕事なのですか?」と英語で聞いてきました。それに対して「私は日本から来ました。
ただの観光旅行ですよ。」と答えると、それを聞いて、車掌はニッコリと笑って「そうですか、観光の為に、日本からですか、
この列車には時々日本の方も乗られますが、皆さんには大変満足して貰っていますよ。ここは兎に角、自然や景色は最高ですから、
十二分に楽しんで下さいね。それから何か有れば何時でも声を掛けてください。」と親しみを込めた 温かな対応をして呉れました。
 暫くの間、私は車窓に現れては、視界に広がり、過ぎて行く風景に、目を配っていたのですが、その日は 早朝に出立したのと、
その後の慌ただしい動きで、急に疲れが出て来たのか、何時の間にかすっかり眠り込んでいました。
 ふと気が付くと、外の景色は今迄とはすっかり変わっていて、切り立った絶壁や渓流が連なっては過ぎて行きます。
周囲の乗客達も列車のサイドに展開するパノラマのような景色にすっかり魅せられているようです。写真を撮る者、絶景に奇声を
上げる者等、車内は大変賑わっています。
 その時、私はこの素晴らしい景色をオープンデッキでも味わって見たいと思いました。そのデッキは小さいながらも、この車両の
前後に其々有って、そこでは大自然の空気に触れる事が出来るようになっていました。
 後ろ側のデッキに行くと、既に結構な人達が集って居ました。身を乗り出すようにして風を浴びながら景色を見ている者、
写真を撮っている者等、それぞれが列車の旅を満喫しています。私はデッキの後方に居て、主に遠ざかって行く景色を眺める事に
しました。切り立った崖や渓流、森や木々、鉄橋やトンネル等、数十分ほど掛けて、雄大な自然をその身近で、十分に堪能した後、
私は座席へ戻ろうと思い、扉を開けて車内へ踏み込みました。
 その時、続いて室内へ入って来た同年輩ぐらいの男の人から、急に声を掛けられました。「あなたはカスオさんと言う
名前ですよね。私もカスオという名前なのですよ。」突然の事で「ええっ!」私はビックリして仕舞いました。
 その後の彼の説明によると、彼の父は日本人で、 太平洋戰爭が始まる頃こちらに来て、ここの女性と結婚して彼が生まれた
そうです。彼は ほぼ私と同年輩に見えますが、背丈は180㎝を超すなかなか恰幅の良い紳士に見えます。我々の会話では、
日本語は全くダメで、スペイン語と英語を使って行われました。彼の座席は私の直ぐ前の席でした。車掌が検札に来た時、
私の名前がカスオと言うのを知ったようです。車掌は私の名前のKAZUOをスペイン語読みで、カスオと発音していたのです。
 彼はバスケットクラブの代表者のような役割で、ラパスと言う所で開催される大きな試合に出席する為に、彼の家族や沢山の
メンバーを引き連れて来ていたのです。今日は終点のロスモチスへ到着後、其の儘直ぐフェリーで最終目的地の
バハ・カリフォルニア州のラパスへ向かうのです。そう言う事で、彼とは半日以上もこの列車の中で過ごす事になったのです。
その間、言葉の壁は有りましたが、何度も彼とは話し合う機会が有りました。彼はマンゴーとか洋ナシ、それにサンドウイッチ等を
差し入れてくれました。その外にも、私に対して、何くれと無く細やかに気を使って呉れたのです。

 カスオさんによると。彼の父がメキシコにやって来たのは、丁度太平洋戦争が始まる
直前の頃でした。それから数ヵ月後には、彼の父は彼の母であるメキシコ女性と結婚して順次、3人の子供を設けるに
至ったのでした。でも、彼の父は自分自身が日本人であると言う事を封印し、子供達にも、自分が日本人の血を引いていると言う
事を余り意識させない様な環境の中で、子育てをして来たそうです。父は子供達に日本語を教える事も無かったし、日本人や
日本文化と接触する機会を与える事もしませんでした。こちらへ来てからは、彼の父は ただひたすら皮革製品を作る仕事に従事
して生計を立て、夢中で働いてきました。そのお陰で、仕事の方は順調に伸びて、やがては大きな店を構えるほどに、その事業は
成長しました。そして成功者としてチワワの町の名士にもなったのです。
 そんな彼の父の様子が、亡くなる2年ほど前に、急に変わったそうです。その頃は既に事業はカスオさんに譲っていて、彼の父は
静かな日々を送っていましたが、ある時、突然日本に行って見たい、と言い出したのです。それから父はその準備に取り掛かった
のですが、予期せぬ本人の死によって、結局その願いは達成されませんでした。しかし、父のその思いは、カスオさんの心に
残ったのです。カスオさんは考えました。何故父は自分の出生について封印して来たのか、そしてある時急に日本に行って見たいと
思ったのか、幾ら考えても彼には答えは見つかりませんでした。父に付いて考えるうちに、カスオさんも今迄余り考えないで来た、
日本と言う国に付いて、次第に関心を持つようになって来たそうです。
 私もその話を聞いて、自分なりに考えて見ました。恐らく彼の父は日本で心に何らかの深い傷を負い、其の事から
逃れるようにして、はるばるとこの地に遣って来たのでは無いでしょうか、それから数十年を経て、心の傷も次第に癒えて来て、
それまで夢中で打ち込んで来た仕事を退いたところで、再度自分のルーツについて、ジックリ考える機会を得たのかも知れません。
そこから再び日本と言う国を訪ねて見たい、と思うに至ったのではないでしょうか?
 私はそんなカスオさんに、北川歌麿の美人画と葛飾北斎の富嶽三十六景富士の絵を描いたコースターを上げました。
彼は浮世絵については何も知らなかったのですが、そのコースターに描かれている絵を見て、そこに、日本の文化を感じ取れる何か
が有る、と思ったのでしょうか、家族や知人達にもそれを見せ、自分のルーツを示そうとしたのです。そして、自らも、
それを探ろうとしていたのだと思います。私がカスオさんに上げた浮世絵は、多くの人達の関心を引き付け、カスオさんを初め、
周囲の人達にも、思いの外、好評だったのです。
 列車は定刻から遅れて、夜の9時を少し回った頃、目的地のロスモチスに無事到着しました。ここで列車の旅も終わりです。
そしてカスオさんともお別れです。駅舎を出た所で、私達は固い握手を交わしました。彼らの一団は、この後、フェリー乗り場へ、
そして、そこから対岸のラパスへ、私は乗り合いタクシーで、ロスモチスの町へと向かうのです。私の今回の旅のハイライトの
一つは、その時、次第に終わりに近づいていました。
                                                (完)